「ひのきしん」ってなに?
親神様のご守護に感謝をささげる自発的な行為が「ひのきしん」です。
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つまり、目がみえること、カラダがうごかせること、食事をいただけること、当たり前とおもわれることかもしれませんが、命を紡いでくださる働きが、すべて「感謝」になります。

それら今、生かされている「喜び」や「感謝」という気持ちを、「態度」で表すこと。「ありがたい」という気持ちをもって生きることはすべて、「ひのきしん」と言われます。つまり「御恩返し」の方法を天理教独自の言葉で「ひのきしん」ということになります。
「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」
『稿本 天理教教祖伝逸話編』「七十二 救かる身やもの」から
感謝の気持ちを、カタチあるものに表したいというのが誰もが持つに思いですが、神様はカタチにこだわるよりも気持ちという見えないものが大切だと教えてくださっています。
「ひのきしん」は、気持ちがこもった行動であって、とても小さな小さな行動になります。
そのココロのこもった小さな行動が積み重なっていき、必然的に「おたすけ」へと通じていきます。
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一般的には、寄進は「社寺などに金銭・物品を寄付すること」(『広辞苑』)を意味しますが、「なにかめづらしつちもちや これがきしんとなるならバ(十一下り目七ッ)」と、本教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進としてお受け取りくださるところに、ひのきしんの面目があります。
「ひのきしん」は、お金がありなしに関わらず、命を紡いでいただく私たちが、いま自分の手でできる範囲の気持ちのこもった行動ということになります。
例えば、学生の方の場合、元気に学校が通えて、「勉強ができてうれしい」「部活でハツラツとプレーできてありがたい」という心を持てることはとても素晴らしいことです。なぜなら、私たちは楽しむ努力を心掛けないと、毎日が当たり前になってしまい不足心がうかびやすいからです。
日々の暮らしに慣れてしまうと、「今日も学校に行かないといけない・・・」「部活もめんどくさい・・・」というような言葉が浮かびやすいものです。
楽しく生きるだけで「ひのきしん」
だからこそ、「ひのきしん」の第一歩は、「楽しく生きる」というようなことがよく聞かれます。
それは、学生だけでなく、誰もができることでもあります。
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貧富や老若男女の別なく、真実の心一つで、だれにでもできるものです。
例え、健康を崩していたとしても、いま自分ができる最初の一歩は、「楽しむ心」を育むことになります。いまの自分の状況で、何ができるのか? そして、大きな行動ではなく、とても小さな小さな行動が求められます。
家の中の清掃をすると家族が喜んでくれます。また、街のごみ拾いは、神様の体をきれいにすることにも通じます。よく言われるのが「自分の半径5m」。私たちが生きる身の回りの5mでできることをまずしましょうよ。と。
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「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」(『天理教教典』)とあります。すなわち、ひのきしんは、日々の絶えざる喜びの行いであり、その姿は千種万態です。信仰のままに、感謝の心から、喜び勇んで事に当たるならば、それはことごとくひのきしんとなります。
神様が大好きな「ひのきしん」。可能性無限です。
「ひのきしん」はこれとあれと、それといった枠組みはないわけです。
ひとことはなしハひのきしん にほひばかりをかけておく
「みかぐらうた」七下り目 一
「おたすけ」は一言だけ、声をかけるだけ
とよく聞かせてもらいます。
「お手伝いが必要ですか?」と一言おたずねして、相手が「必要ない」と言われたら、周囲からは本人が困っているように見えても、本人は神様の世界(この世界)で困っている状況にならないと勉強できないことがあるんだと言われます。
神様が気づいてほしいメッセージがあるから、身上・事情といったサインをくださる。
身上とは一般的に「病気」のこと。
天理教の「おたすけ」では、病気という状況にならないと気づけないことがあるんだ。ということから、たすかりの道をみつけていくわけですから、「病気がよくなってください」といった願いは行わず、多くの教会や布教所では、病気になった方に対して「病気というサインに感謝を申し上げ、良いようにお導きください」と祈っていきます。
「願い」は「感謝」を伝える行為であり、「祈り」は「たすかり」の行動。
そして、「ひのきしん」は「お徳」というポイントをつむことにもなります。
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「やしきハかみのでんぢやで まいたるたねハみなはへる(七下り目八ッ)」とあるように、ひのきしんは本来、おぢばへの伏せ込みを第一義としますが、その理を受ける教会への伏せ込みや、より広義には、親神様のお喜びくださる行いすべてをも指すということができます。